大人になってからの気付き《喪黒福造》

小さい頃(幼稚園年少か年長)、父親の影響で《笑ゥせぇるすまん》をよく見ていた。

 

笑ゥセールスマンのざっっっくりとしたストーリーは

《現状に不満を抱いてる人をターゲットにして、それを満たすための商品を売るセールスマンの話》


何が面白いかと言うと、そのセールスマンから受けとった現状を打開するための商品(欲望)ですらそれに足らず満足できなくなり、更なる欲を出してしまいセールスマンからドーン!(と言いながら指を指す魔法のようなもの)をされ

ドーンされたその人は廃人になる。といういささかやりすぎな制裁を受ける。という一話完結型。

 

当時物語の趣旨を全く理解していなかったが、

「喪黒福造がやって来て、見つかったらドーン!をされてやられちゃうから、見つからないように気をつけて!」とハラハラサスペンスかなにかだと思いながら見ていた。

 

ただ、セーラームーンやその他アニメにはない薄気味悪さやオープニングの何かが迫ってくるような不安を煽るBGMは幼少期には新鮮で刺さるものがあったので話の本筋はわからなくとも楽しんで見ていた。

 

それから小学半ばから高学年あたりになってたまたま部屋で《わらうせーるすまん》と全平仮名で書かれたラベルの録画ビデオを見つけそれを再生したとき

「あぁ。あまり欲を出すと童話のイジワルじいさんみたいになっていけないから、それを抑止するための話だったのか」と、これを幼少期に自分に見せていたお父さんと作者の意図を子供ながらに解釈し、自分の勘の良さへ優越感を抱き少し大人になった気分になれた。

それと同時に《わらうせーるすまん》というひとつの単語だと思っていたものが《笑う》《セールスマン》という熟語だったのかと気付けて当時は衝撃だった。

 

笑ゥせぇるすまんに深掘りする事もなくさらに年を重ね、ある日友人との雑談中「幼少期なんのアニメ見てた?」と人生で何度かよく上がる話題が起こり「私は笑ゥせぇるすまん好きだったな」と答えた。

友人も同じく「私も。なんかよくわからないけど見てたし好きだった」と言い、そのまま笑ゥせぇるすまんの話題にシフトした。

 

「わらうせーるすまんって一つの単語だと思ってなかった?」

「わかる」

「登場人物の名前ディスりあるよね。薄井幸代。みたいな」

「それな」

「あのバーのオジサンて一生喋らないのかな?」

「クールすぎる」

 

軽いあるあるトークで記憶と解釈の微調整を互いに行う。

「しかしあのセールスマンは最初からその人が欲望に勝てないと見越した上で売り付けて(実際はタダ)、練り歩いているんだよね。めちゃくちゃ見る目あるじゃん」

「てか、子どもの時は欲張りじいさんの本格的verみたいなもんだとおもってたけど、今になって改めて考えたらそれだけのメッセージではないよね」

「…と言いますと?」

 

友人と話したまとめは

この話に置ける作者のメッセージは、人間はどんな幸せを得てももっと欲しいもっと欲しいと欲望に上限がない今享受されている幸せに気がつけない哀れな生き物である。

今の状況にもある幸せに気付いてあげなさいということではないか。と

 

小学生の時の気付きから、更に新たな気付きを発見し、脳内の片隅にある《笑ゥせぇるすまん解釈》フォルダへ上書き保存をした。

 

 

 

 

 

 

ボールペンの芯とコップの水

勤めている職場に苦手な人がいるのだが、その人からおもむろに「ボールペンの芯が細い。太いのに変えたらどうだ」と指摘をされた。


仕事上でのアドバイスであればまずは聞き入れようと思う。字が汚いので読みにくいなど迷惑をかけているのであれば話は別だが細い太いに至ってはその人の主観であり好みであり、私が受け入れる筋合いはないと思った。ので、その場では はい とも いいえ とも答えず半笑いで場を収めた。


その日頭の中にボールペンの芯を支配されながら過ごすこととなった。
最近では精神の許容をコップと水に例える事があり、その日はコップという許容の中にある水が9割を占められていた。


終業20時。あと数時間で1日が終わる。

コップの中の水をいかに減らせるか と思考を巡らせ、単純に《ファミチキを食べて一時間のウォーキングしてそのあと温泉に入る》という自分が今最も満足できてリーズナブルなストレス発散コースを思案し、それをこなしその日は就寝した。

 

次の日、朝洗濯物を干し終わり一仕事終えた達成感のあと覆い被さるように「ボールペンの芯」が頭の中を過った。
そのあとも、皿を洗いながら「ボールペンの芯」買い物が終わり冷蔵庫に収納をし扉を閉めたら「ボールペンの芯」ポケモンスリープのカビゴンに木の実をあげても「ボールペンの芯」昼御飯を咀嚼しながら「ボールペンの芯」

隙間がどんなに小さかろうがボールペンの芯が思考にねじりこんでくる。

このままではまずいと思い、軽く睡眠をとりリフレッシュを図ろうと横になった。

13時30分にアラームをセットして軽い昼寝。

目が覚めた瞬間、感覚的にやばいと思った。17時を廻っていた。軽い昼寝のつもりがボールペンの芯を忘れたいだけで貴重な休日を無下にしてしまった。

ボールペンの芯に重ねて無駄な昼寝をしたという事実にコップの水が表面張力にまで達した。昨夜コップの中の水を減らしたはずではなかったのか。自分は何をすれば水を溜めずにできたのか。

換気扇に下に立ちタバコの煙を燻らせながら「自分はコップの中の水を減らせず、砂糖やハチミツなど何か味になる物を足しただけなのかも」と気がついた。

実際一晩経って《職場の嫌な人にボールペンの芯の太さにケチつけられた》という他人に語るには丁度いい具合のエンタメになっていた。

必要だったのは物理的ストレス発散ではなく誰かに話を聞いてもらう事だったのかもしれない。

表面張力に達した水は少し口にしたら激甘く感じた。明日誰かにこの水を飲んでもらおう。甘すぎだろwと笑ってもらおう。

そういった水の減らし方も有りではないか。そしてボールペンの芯にケチつけたあいつに払わせる税金とかねえかなとありもしない空想を思考し初ブログに記録を残して休日が終わった。